ここで何が何でも1点が欲しい。背番号「56」の彼女が五輪世界最終予選のコートに送り出されるのは、そんなしびれる場面になるだろう。2024年4月1日、パリ五輪世界最終予選(4月11〜14日、ハンガリー)に挑むハンドボール女子日本代表(おりひめジャパン)に初選出された菊池杏菜(25)。ポジションはチームで最も得点力が求められるLB(レフトバック)。富山県射水市に拠点を置く日本リーグの所属チーム、プレステージ・インターナショナル アランマーレからただ1人、今回の代表に選ばれた。
楠本監督が探していた「最後のピース」
ひときわ大きい数字の背番号「56」は、20人の代表選手のなかでひときわ小さい156cmの身長(体重も56キロ)と重なる。「小さくても、やれるんだ」という個性を、自らのストロングポイントとして誇示し、背負っていく決意にも映る。
菊池は、楠本繁生代表監督が昨年8月、広島でのアジア予選で日本が韓国に24-25の逆転負け、1点差で五輪出場権を逃して以来、探し求めていた最後の「ピース」だった。
そのアジア予選。当時の代表メンバーではなかった菊池は会場2階席でチームメートと応援歌を歌いながら見守っていた。「一緒に戦っている気持ちだった」。あの時、仲間が味わった1点の重みと悔しさは、彼女の目にも焼き付いている。
昨夏のアジア予選で1点差に泣いた楠本監督は、代表発表の記者会見で菊池の選出理由をこう説明した。「ヨーロッパの代表選手は平均身長が180cm以上あるなかで、菊池選手のような150cm台の選手にまず慣れていない。そして、見ていただければわかる通り、体つきも足の筋力もずば抜けていて、優れた瞬発力もある。小さいながらも大きいディフェンスの間を突破できる。スピードで、個人で局面を打破できる選手を探していたところ、菊池選手がヒットした」。身長はチームで最も低くてもフィジカルの強さはナンバーワン。まさに、個の力で試合の形勢を一気に変える、おりひめジャパンの「ゲームチェンジャー」の期待が菊池にはかかる。
菊池本人も自分の役割は自覚している。
「私が求められているのは1対1での突破。そのワンプレーで1点を取り切ること。それ以外は『やるな』じゃないですけど、それだけに集中しろということを監督にも言われています。起用されるのはきっと苦しい場面になると思いますが、絶対に期待に応えてやるぞという思いです」。万能性はいらない。一芸に徹するのみ、というメッセージが菊池にはストレートに伝わっている。(下に記事が続きます)
栄光と無縁、個性磨いて代表へ
菊池はあらゆる球技を通じても、日本代表選手としてはかなり珍しい球歴だ。これまで日本一になったことも、年代別の日本代表に選ばれた経験も一切ない。
中学1年からハンドボールを始めたが、学生時代は岩手・不来方高2年の時の全国インターハイ8強が最高。高校卒業と同時に入団したアランマーレでも、昨秋、鹿児島県で開催された国民体育大会で成年女子に富山県代表として3位になったのが、自身のハンドボールキャリアの最高成績だという。
「去年国体で3位になれたけど、その時も日本一になれなくて悔しかった。チームが負けると自分はまだまだなんだと言い聞かせて今までやってきました」。高卒8年目。富山の原石が個性を徹底的に磨きぬいた結果、代表まで駆け上がった。
アランマーレ仕込み 3年越しでフィジカル強化
チームスポーツのハンドボールにあって日本一や年代別代表の実績がないにも関わらず、菊池がパリ五輪世界最終予選の日本代表に抜擢された理由。それは、楠本監督が「ずば抜けている」と評する「フィジカル」、体の強さにある。
特に下半身の強さだ。太もも前後の大腿四頭筋、ハムストリングは盛り上がり、ハンドボールコート内の動きだけでは鍛えられない筋肉を持ち合わせている。筆者は朝日新聞スポーツ部記者時代から、五輪の様々な競技の選手を幅広く取材してきたが、一見してその筋肉の量に驚かされたのは自転車女子オムニアムで東京五輪銀メダルを獲得した梶原悠未(26)以来のことだった。
「アランマーレの横川卓也・アスレティックトレーナーのもとで、3年ほど前からチーム全体でフィジカル強化に重きを置いてトレーニングを積んできました。そのおかげで、体の強さは代表でも通用すると感じています」と菊池。ウエイトを利用したスクワットでは180キロ以上のおもりで腰を落としてひざの屈伸ができる。125キロの重量なら、お尻をしっかり下まで落とすスクワットを軽々やってのけるという。
ただ、人並外れた筋肉を備える下半身ゆえに、苦労もある。
「ジーンズなんかの試着にはかなりの時間がかかりますね。たいてい丈で選ぶと、膝までしかはけません。それと、公式行事などで着席した時、脚を閉じて座らなければならない時ってあるじゃないですか。私は太ももが邪魔して膝と膝がくっつきません」と笑う。
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「速さだけでは勝てない」強いフィジカル
おりひめジャパンの戦い方のベースは堅守からの速攻だ。
「でも私は中学、高校時代からかなり小さい方で、スピードだけでは勝てないのはわかっていた。日本リーグでもスピードやクイックネスが売りの選手はいるけれど、そのうえでフィジカルが強い選手はなかなかいない。海外と戦う上では強いフィジカルがないと、勝てないと私個人としては思っています」と菊池はいう。
「体の強さが大前提で、その上で私に必要なのは体の使い方、そしてタイミング。強いフィジカルをハンドボールに落とし込んでいくなかで、寄せが速い海外選手のディフェンスを前に、ポストに落とすのか、サイドに飛ばすのか。自分でシュートを打つのか。フェイントの後の判断も重要になってきます」と自らの課題は明確だ。
男子代表・安平選手の動画でイメトレ
日本代表初選出の菊池にとっては、これまで韓国選手とはマッチアップしたことがあっても、ヨーロッパの選手と対峙するのは初体験となる。未知の経験を埋めるため、日々のイメージトレーニングにも熱が入る。
参考にしているのは男子日本代表の司令塔、安平光佑選手(北マケドニア・RKバルダル)のプレー動画だ。
「安平選手の動画を見て、日本人が身長が大きくて体重が重い相手と対峙した時にどういう体の使い方をしているかを研究しています。フェイントとか、自分もこういう風にプレーしたら相手を抜けるかな、などとイメージしています。五輪世界最終予選の直前にデンマークでの合宿があるので、その経験も私にとってはすごく大事な機会になると思います。どうしても1点が欲しい時に起用されると思うので、完ぺきなイメージを持つことが大事だと思っています。とにかく自分のプレーがどれだけ通用するかワクワクしています」
コートネームが「ニモ」の訳
ここまで菊池杏菜のことを本名で書いてきたのだが、日常生活では本名で呼ばれることが少ないのだという。コート上では「ニモ」。後輩からは「ニモさん」と呼ばれている。
その理由を尋ねた。
「私は岩手出身ということで、岩手と言えば、宮沢賢治。『雨ニモマケズ、風ニモマケズ』から取って、『ニモ』と呼ばれています。入団してすぐ、アランマーレの先輩がつけてくださいました」
うれしかったこと「まだないですね」
そんな「ニモ」にこれまでで一番うれしかったことを尋ねると、「まだないですね」と即答が返ってきた。今回の日本代表初選出は通過点。自分のゴールでパリ五輪出場を決めてこそ、心から喜べるという。
「2016年、岩手の不来方高校を卒業するタイミングでアランマーレが日本リーグに参戦するのを知って、私は一緒に成長できるんじゃないかと運命を感じました。そんな新興チーム、アランマーレだったからこそ自分は精神的にも、肉体的にも成長できた。地元岩手でも、第二の故郷の富山でも社会人になって女子がハンドボールを続ける人は少ないですよね。パリ五輪に私が出て、いい影響を与えられたら」。決戦の地、ハンガリーにはそんな思いも背負っていく。
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