今回はビーチハンドボールのとある選手を紹介します。2025年4月27日の東海ビーチハンドボールフェスタで活動に区切りをつけた、KUNOICHIの大谷萌です。お世辞にも上手とは言えなかった7年前から時間をかけて成長し「さあ、これから」というタイミングで、彼女は一旦競技から離れる決断をしました。日本代表でもプロでもないけれど、彼女の頑張りを形に残しておきたくて、記事にしました。
小さくて不器用な左利き

2018年某日、愛知県の碧南緑地ビーチコートに小柄な女の子が現れた。名前は大谷萌。岡崎城西高校(愛知)を卒業し、大学生になった大谷は、高校時代の外部コーチだった星野美佳から誘われて、ビーチハンドボールを始めようとしていた。小さな左利きで、性格もいい。星野が立ち上げたKUNOICHIに入った大谷は、早々にチームのマスコット的存在になった。
最初の頃の大谷は初心者丸出しだった。ビーチハンドでは、空中で1回転するスピンシュートが2点になるので、スピンシュートが打てないと話にならない。しかし大谷はなかなか回れない。いつもシュートを打ち切る前に着地していた。ビーチハンドの講習会に参加しても、教える側ではなく、参加者と一緒に練習する側だった。(下に記事が続きます)
意欲はあったが…

はっきり言って、プレーはうまくない。だがそれでも大谷はビーチハンドに食らいついた。日本の女子で一番ストイックに取り組むKUNOICHIの活動に、大谷はいつも参加していた。最年少で雑用も引き受け、一生懸命やっている。アルバイトで資金を稼いで、遠征にも参加していた。大学生になれば、もっと楽しく遊べるはずなのに、大谷はビーチハンドにすべてを捧げる勢いだった。
2019年に千葉県の富津海岸で、ビーチハンド日本代表のセレクションがあった。大谷も参加しようとしたが、いつも大谷を教えている星野が待ったをかけた。「気持ちはわかるけど、それなりの技量と覚悟がないと…」大谷はその時点で、まだスピンシュートが打てなかった。気持ちは買ってあげたいが、代表のセレクションに応募するレベルではなかった。
大学を卒業して社会人になってからも、大谷はビーチハンドを続けた。大谷の頑張りは誰もが知っている。なんとか物になってほしい。ただ見ている側からすると「この子は何が楽しくて、ビーチハンドを頑張っていんだろう?」と思うことも多かった。日本代表経験のある選手が、余暇程度でプレーを楽しんで勝っているのに、真剣にビーチハンドに向き合う大谷は、たまに試合に出ても失敗ばかり。星野にダメ出しされることも多かった。能力の差はなんともならないのか。大谷の努力を知っているからこそ、余計にもどかしかった。
スピンシュートが打てるようになった!

大谷が殻を破ったのは、今から3年ほど前のことだった。KUNOICHIに今泉貴雄がスタッフで加わり、大谷はスピンシュートの跳び方を懇切丁寧に教わった。
「今泉さんはただ『回る』と言うのではなく、動きを分解して教えてくれました。左利きの私の場合は、斜め右上に跳んで、ゴールに対して最短距離になる道を確保してから、空中で体を折りたたんでいきます。今泉さんは『2つの動作で折りたたむ』と表現していますね。私は『パタパタ』と言っているんですけど」
今泉に体の使い方を教わるうちに、大谷は新たな発見をした。
「インドアでは『7:3で母指球に重心をかけろ』と教わったんです。今泉さんは『内くるぶしの下あたりに重心を置いて、この2本で支えろ』という教え方をしていました。今泉さんの立ち方を試すと、余計な筋肉を使わなくなりました。余計な筋肉に力が入ると、体がガチッと固まって、次の動きができなくなるんですよ。今泉さんは足がキレイで、太ももの前側が張ってないじゃないですか。余計な筋肉を使っていないからだと思います」
浜松のビーチハンドボールの顔とも言える今泉は長身で、ビックリするほど手足が細い。余計な筋力に頼ることなく砂浜を動き回り、長い腕でシャット(シュートブロック)に跳ぶ。今泉の動きを見ていると「骨で立つ」という言葉がぴったり当てはまる。この感覚を大谷にも伝えたのだろう。今泉から身のこなしを習った大谷は、ようやく安定して一回転できるようになった。 (下に記事が続きます)
自分で決めた区切り

上達の兆しを見せる一方で、社会人になった大谷は悩んでいた。
「いつまで、何を目指して、どう頑張るか。それが自分のなかでもずっと迷走していて。もちろんビーチハンドは楽しいし、上手くなりたい気持ちはあるんですけど、私はいつまでこの競技を頑張るんだろうというのが、私自身もわからなくなっていました。この先どこまでやったら、理想の自分になれるのか。このままダラダラ続けても意味がない。じゃあ、自分で区切りをつけようと、キリのいい『25歳が終わるまで』と決めました」
続けるのは「あと2年」と決めた時、愛知県ハンドボール協会ビーチハンド専門委員会の理事も引き受けた。当時24歳。愛知県ハンドボール協会史上最年少理事の誕生だった。
センターで勝負の責任背負う

大谷が「なりたい自分」で思い描いていたのは、センターでゲームを作ることだった。
「私はずっと、真ん中でボールを回せるようになりたいと思っていました。自分のボールさばきで、周りの人を活かして、上手にOFを組み立てたい。そうなれるように教わってきました。いかにスペースを作るか。いかにいい位置取りをするか。色々考えながらやるのは楽しかったですし、荷が重いとは思いませんでした。私、結構能天気なので」
大谷は元来端っこを好むタイプの性格で、中心になって仕切ったり、勝負の責任を背負ったりといった役割とは無縁だった。「競技者として、自分は向いてないのかな」と思うことも多かった。だが「なりたい自分」への思いは真っすぐで、大役に怖気づくことはなかった。センターを任されてからは、年下の選手にOFを教えるなど、これまでにない大谷の姿が見られた。
2024年10月の全日本ビーチハンドボール選手権で、センターにいた大谷が中央でカットインを決めた。センターが真ん中で切れ込めたら、他のスペースが広がり、両サイドやポストが打ちやすくなる。「いいプレーでしたね」と話しかけると、大谷も手応えを感じていたようだった。25歳にしてようやく、勝負の責任を背負えるところまで来た。翌年1月には有志によるオランダ遠征に参加し、大谷はしっかりとゲームを組み立てたという。高校時代から大谷を見てきた星野は「目立たないけど、いい仕事をしていました。あの萌が、ゲームを作れるようになるまで成長したんですよ」と興奮気味だった。
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走り続けてきた7年間

いよいよ本格化するかと思われたが、2025年1月のオランダ遠征が、大谷にとって最後の試合になった。4月14日の誕生日を過ぎて26歳になった大谷は、4月27日の東海ビーチハンドボールフェスタで運営委員長の役割を果たし、理事の仕事も終えた。これでビーチハンドは一区切りだという。「また会場に顔を出すと思うので、永遠の別れではないですよ」と、大谷は微笑んだ。そして「なりたい自分には近づけたかな」と、ビーチハンドに捧げた7年間を振り返った。
全力で走ってきたから、今は一旦休めばいい。世の中にはビーチハンドよりも面白いものが沢山ある。色んなものを見てきたうえで、もう一度ビーチハンドに戻ってくれたら、きっと仲間は温かく迎えてくれるだろう。ひとりの名もなきプレーヤーだったが、大谷萌の努力と成長は、見る人の心に響くものがあった。
大谷 萌(おおたに・もえ)1999年4月14日生まれ、愛知県出身。岡崎城西高校(愛知)では主にライトバックでプレーした。高校の外部コーチをしていた星野美佳に誘われて、大学入学を機にビーチハンドを始める。KUNOICHIではチーム最年少の時期が長かったが、少しずつできることを増やし、最後は左利きのセンターとして試合に出るまでに成長。プレーの傍ら、愛知県ハンドボール協会最年少理事として、ビーチハンドの大会運営などにも力を注いだ。2025年4月の東海ビーチを最後に、いったん活動を終える。

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