午前4時。オリンピックの開催中、選手村を囲う塀をよじ登って侵入したテロリストが眠っていた選手やコーチら11人を人質にとった。2人はその場で射殺され、残り9人も銃撃戦に巻き込まれて全員が死んだーー。1972年ミュンヘン五輪の開催中の9月5日にその事件は実際に起きた。選手村に忍び込んだパレスチナゲリラが、イスラエル選手団の11人を殺害した「黒い9月事件」は五輪史上最悪の悲劇と言われる。2024年4月16日、犠牲者の名前が刻まれた追悼碑があるミュンヘンのオリンピック公園を歩いた。
公園の中に追悼施設
ミュンヘンはドイツ南部に位置する第3の都市でバイエルン州の州都。人口140万人。オリンピック公園はミュンヘン中心部から北西に約5キロ、BMWミュージアムのすぐそばにある。オリンピック公園内にはミュンヘン市内を一望できる高さ291mのオリンピックタワーや、8万人収容のスタジアム、競泳プールなどがある。1972年ミュンヘン五輪で日本の男子バレーが金メダルを獲得したアリーナもこのパーク内にある。
公園を訪れたのは雨上がりの午前中だった。ほとんど人影がない緑豊かな広大な公園を歩くと、その追悼碑はあった。事件の記憶を風化させないために建てられたこの追悼碑は屋根がついた屋外の施設で、それほど大掛かりなものではない。30分もあれば、「五輪史上最悪の悲劇」の概要がわかる。
事件の概要は主にドイツ語と英語、(一部ヘブライ語)で説明され、犠牲になったイスラエル選手団のひとり一人のプロフィールとともに、家族に出すはずだった手紙やパスポートなど遺品が展示されていた。(下に記事が続きます)
52年たった現在もなお
展示の説明によると、犯行グループは選手村を襲撃し、2人を殺害したあと、イスラエル政府に対して、同国に収監されているパレスチナ人234人の釈放を要求したとあった。それがテロの動機だった。背景にあったのはイスラエルとアラブ諸国の対立によるパレスチナ問題だ。
この事件から52年経ったいまも、イスラエルとイスラム組織ハマスの戦闘が続く。イスラエルはパレスチナ自治区ガザへの攻撃を続けていて、国際社会から非難を浴びる立場だ。さらにハマスを支援するイランとイスラエルが互いにミサイルで攻撃し合うなど、戦火が収まる気配はない。
オリンピックを取材するようになってほどなくして「黒い9月事件」を知った。自分が生まれた1972年夏に起きたことで実感は持てないが、現在の緊迫した中東情勢などからみて「平和の祭典」が再び標的になる可能性はゼロではない。追悼碑の前でこの半世紀、繰り返されてきた「報復の応酬」にやるせない気持ちがこみ上げた。
パリ五輪もテロ警戒
パリ五輪の開幕まで2カ月を切った。開会式は7月26日、パリの観光名所が両岸に連なるセーヌ川が会場となる。前例がない競技場外のセレモニーで、各国選手団は船に乗って登場するという。斬新な演出が注目されるが、警備には不安が残る。フランス政府や大会組織委員会は2024年1月、開会式の観客を当初の60万人から30万人に半減させる方針を打ち出した。マクロン大統領は安全面に脅威がある場合、会場を郊外サンドニのスタッド・ド・フランスに変更する可能性にも言及している。厳戒態勢のなか、パリ五輪開幕へ準備が進む。
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