2001年よりイタリア在住。イタリアと日本を言葉でつなぐ
兵庫県伊丹市生まれ、川西市育ち。少年野球のコーチから古希野球までずっと野球道を行く父の影響からか、幼少よりスポーツに親しむ。小学校4年生から地元クラブでバレーボールを始め、中学・高校もバレー部に入る。
高校は新設校ながら、ハンドボールやバドミントンの国体選手や、大学卒業時にバレー実業団入団か迷ったというハイレベルな体育の先生ばかり。3年間体育委員をして体育大会を仕切ったり、バレーボール部で近畿大会出場などを果たすも、指定校推薦で入学した大学では楽しめなくなっていたバレー部に入ることはなかった。
新入生歓迎飲み会が面白かったから、という理由だけで競技スキーサークルに入部。スキー代を稼ぐためにバイトに励み、春は乗鞍岳や月山で上りスキー合宿や陸上トレーニング、冬は12月〜3月まで合宿と各大会に明け暮れる。ほぼスキー初心者で、最初のレースのスタート直後にズッコケて大恥をかくものの、競技の面白さにハマり4年生の時にオール早稲田で女子チームと個人総合優勝。
バレーボールとも縁があり、体育で受講したバレーの矢島教授(男子バレー部元アドバイザー、バレーボール学会元会長)に誘われて以後、教授のバレーの授業や山岳合宿のアシスタントを勤める。
就職氷河期の中、自分の好きなことで男女平等に扱われる職種でと、マスコミ、メーカーなどに応募。最終的に決まったのは住宅設備機器メーカーの総合職で、女子総合職が活躍していた大阪本社の宣伝課に配属され、広告出稿やキッチン販促物の制作管理に携わる。
歴史好きから興味を持っていたイタリアへ卒業旅行で行ってから大好きになり、残業に追われながらも2年目から趣味でイタリア語学習を開始。同期のスポーツ男子に誘われてマウンテンバイクに没頭したのもこの時期で、ボーナスでマウンテンバイクと備品一式を購入し、山へ走りに行く毎週末。8時間耐久チームレースやダウンヒルに出場したり、山下り中に林に突っ込み負傷した顔で出社して会社でドン引きされたり、家族からもあきれられる。
最終的にこの会社では女性はキャリアが積めないと悟り、一度転職後も日本での将来への疑問が募り、フィレンツェ留学を決意する。
フィレンツェ留学。語学学校の課外活動でバレーボールを再開。語学学校を終了後も、そこで一緒にプレーしていた学校秘書の友人に誘われて男女混合チームに参加する。
大学付属の文化センターでイタリア語上級クラス終了後、フィレンツェ大学文学部歴史科で単科コース受講。
結婚。2年後に郊外に引っ越した後は夫の同僚が参加する男女混合バレーボールチームに参加するも、第一子妊娠を機に中断。
日本の旅行関連会社のイタリア担当などを経験しつつ、仕事を模索する日々。友人の付き添いで訪れた高級機械式時計ブランド店で担当の店員にイタリア語を褒められ、過去に彼女が英伊通訳をしていた頃の通訳派遣会社や、日本の通訳紹介サイトなどに登録し、少しづつ通訳の仕事ができるように。最初の時計業界の通訳がそのブランドの新商品発表記者会見だったにも関わらず、経験をしなければいつまでも素人だ!と清水の舞台から飛び降りるように同時通訳デビューするも、頭が真っ白になり撃沈。それでもなぜか周りからは好評で、同業界で長く仕事を続けられた経験は今も活動のベースとなっている。
その後、現在まで日本経済新聞や時計専門雑誌の取材通訳、各種団体や企業の視察のコーディネートと通訳、各種リサーチやレポート業務などを継続。2005年、翌年のトリノ冬季オリンピックで通訳ボランティアを目指すが、妊娠で断念。
ファッション業界で日本代理店のイタリア担当に。1人で20社近くを担当し、年に4回の長期出張に加えて朝から晩までメールや資料の翻訳に追われ、激務とストレスで体を壊して4年後に退職。
ストレスで体が蝕まれることを身をもって体験し、自分が本当にしたい仕事は何か?これからの人生を悔いなく終えるには?を真剣に考えるようになる。
スポーツも再開して地元公民館でズンバ、また家族で念願だったアルプススキーを実現。
自分の好きな個人旅行と第二の故郷となったトスカーナ州への愛着から、サイト「トスカーナ自由自在」を開設。小さな村やワイナリーなどの生産者、料理教室やマウンテンバイクツアーなどのアクティビティを紹介し、通訳アテンドとして同行。人口1800人の通称おらが村にも日本人観光客が来るようになる。旅や地域プロモーション、建築やデザインなどをテーマに各ウェブメディアに寄稿を開始。
息子たちも大きくなって夏バカンスもビーチでまったりするばかりでなく、宿泊施設のマウンテンバイクツアーやアクアビクスなども楽しめるように。
コロナ勃発でイタリアはロックダウン。いろんな仕事が順調であったのに、数年前より始めていたライター以外の仕事はゼロになる。ストックしてあった情報や写真を使い、自力でアマゾン電子書籍作成を開始、現在まで合計5冊出版。
それまでにバレーボールは世界選手権などの国際試合は見ていたものの、東京オリンピックの放送で男子バレーの石川選手がイタリアのスーペルレガでプレーしていることを知り、毎週末のTV観戦を開始(なぜもっと早く知らなかったのか!と今でも悔しい)。西田選手や高橋選手など日本人選手も増え、バレーボールで通訳したい!と妄想し始める。
東海教育研究所より「イタリアの美しい村を歩く」を出版。イタリアの美しい村協会に加盟する30の村を訪問、協会会長のインタビューなど出版社のウェブサイトにも寄稿。
女子バレー欧州杯準々決勝を観戦に行くほどバレーボール熱が過熱。イタリア女子バレーセリエAのイル・ビゾンテ・フィレンツェにて石川真佑選手の通訳およびサポートを行うこととなり、2年前の妄想が現実となる。
2024年 Pen & Sportsと出会い、スポーツ分野でも寄稿を開始。
大学、就職、イタリア移住と結婚、そして仕事・・・私の人生はその時々の決断で予想もしない方向で変わってきましたが、50歳を過ぎてこれからも、きっとそういう人生を歩むような気がしています。自分が情熱を持つ分野で、また自分が必要とされる分野で、イタリアと日本を「言葉とでつなぐ」活動を続けてゆきます。