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【パリ五輪/柔道】ウルフ・アロン、メダル逃す。貫いた自分流 | 100㎏級

パリ五輪柔道100kg級、敗者復活戦で敗れたウルフ・アロン=2024年8月1日、パリ・シャンドマルス・アリーナで(写真:小川和行/フォート・キシモト)
パリ五輪柔道100kg級、敗者復活戦で敗れたウルフ・アロン=2024年8月1日、パリ・シャンドマルス・アリーナで(写真:小川和行/フォート・キシモト)
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パリ五輪第7日の2024年8月1日、柔道はシャンドマルス・アリーナで2階級が行われ、男子100kg級で前回東京の金メダリストであるウルフ・アロン(パーク24)は準々決勝、敗者復活戦と連敗。メダルを逃した。66kg級の阿部一二三(パーク24)、81kg級の永瀬貴規(旭化成)に続く2連覇はならず、60kg級の永山竜樹(SBC湘南美容クリニック)から続いた男子の連続メダルも5個で途切れた。

目次

敗者復活、延長で一本負け

敗者復活戦での敗戦が現状を物語っていた。延長に入って試合時間が7分に近づいたところだった。内股で攻めたところをすかされ、逆に内股を決められた。ウルフ左、相手のシャラサディシビリ(スペイン)は右組みのけんか四つ。主審から「一本」の宣告がなされると、荒い息の中、畳の上で大の字になり、しばらく会場の天井を見つめた。

東京で優勝した3年前のウルフは25歳。柔道を志した幼い頃から「強くなるためにとりあえず走った」というランニングに加えての猛稽古で、スタミナには自信があった。延長に入るとへばる選手が多い中で、「ウルフタイム」と呼ばれて、試合は長くなればなるほど、強みを発揮した。

だが、この日のウルフは本戦の4分で息があがるほどではないが、相手をどんどん追い込むかつての勢いは消えていた。準々決勝で世界2位のスラマニゼ(ジョージア)に敗れた時も、序盤に隅返しで技ありを奪われると、続けての抑え込みはなんとか逃れたが、その後は釣り手を絞られ、攻めきれなかった。(次に記事が続きます)

準々決勝で世界2位のスラマニゼ(ジョージア)に敗れた=国際柔道連盟の公式Xより

「集大成にしたい大会だった」

「接戦をものに出来なかった。柔道人生の集大成にしたい大会だったので残念」。涙がにじんだ。

スタミナの衰えは年齢のせいではない。東京後、体重が最大120kgを超えた。加えてメディアへの出演が増えて「タレントのつもりか」とも言われた。当然、トレーニングも練習量も減る。この1年で何とか仕上げてきたが、全盛期に戻す猶予はなかった。批判も受けた東京後の過ごし方だが、本人には信念があった。頻繁に更新してきた動画配信について、いつもにこやかなウルフが真顔で言った。

「シニアの国際大会に出るようになり、国内の大会は観客が少ないと感じるようになった。スポーツは見てくれる人、応援してくれる人がいることで成り立つ。第一線で戦っている選手が、柔道のことを知ってもらう活動をすることは重要なことだと思う」

「海外で観客の多いのはやはりグランドスラム・パリ。柔道はそれだけ熱のある競技。国内では知ってもらえてないだけだと思う」。確かにパリでの国際大会は20年以上前から熱気ムンムンだった。私も1996年アトランタの年の当時のフランス国際を取材したが、会場は超満員。観客の目も肥えていて、不可解な審判にはブーイング。母国勢への応援はすごいが、他国選手でもすばらしい技には自然と拍手が沸き起こるのは、今回の五輪と一緒だった。

武道館が満員、いまは昔

それに比べると国内の試合は指摘通り寂しい。以前、山下泰裕氏と斉藤仁氏が激突していた全日本選手権は、日本武道館が3階席まで満員で埋まっていたが、今は空席は目立つ。他の大会もそう。唯一の国際大会であるグランドスラム東京でも半分も入っていない。

「野球とか、サッカーの人気競技のファンは、プレーも見るが、この選手が好きとか、このチームが好きとかで来ている人が多いと思う。柔道は人に見てもらおうという気持ちが足りていない。テレビとかで、まず知ってもらうことで柔道への入り口を作れる。SNSとか動画も。僕を入り口にいろんな選手を知ってもらえたら。ただ、お陰で僕の知名度は上がったが、『柔道を見よう』につながっているか、はまだ分からない。自分が試合をすることで、それが分かってくるのではないか、と思う」(下に記事が続きます)

普及への心意気、山口香さんに通じる

現役のうちから柔道を取り巻く環境を自ら変えようとする姿勢を語る彼を見て、女子柔道競技化の創成期に「女三四郎」と言われた日本人初の世界王者、山口香さんを思い出した。元日本オリンピック委員会(JOC)理事は、13歳で当時の第1回全日本女子体重別選手権に優勝。以来、10連覇した彼女は私よりも1学年下だったが、大学在学中から世界王者になった。話をすると、いつも「どうやって女子柔道の選手を増やし、競技を発展させるか」ばかりを考えていた。

筑波大柔道部で女子部員第1号になった時だ。「なぜ、女子部員のいない大学を選んだのか」との問いに、「私は選手として様々なことをやってきた。次は女子が指導者になる道を作るため」と話した。筑波大の前身は東京高等師範学校で、柔道の創始者である嘉納治五郎が20年以上校長を務めた教育者育成の老舗だ。女子が初めて五輪に登場した88年ソウルでは銅メダル。彼女の存在が後を追う者を生み、現在の日本の女子柔道の発展につながったのは間違いない。取材はほぼ断らなかった。自ら情報が発信できる時代ではなかったが、「普及」への同じような心意気が伝わっていた。(下に記事が続きます)

驚かせた「ウルフ流世界一周」

柔道の抑え込みの基本を教えるけさ固め、後ろけさ固め、横四方固めから反対側の横四方固め、縦四方固め、肩固め、けさ固めと変化して行く「世界一周」と呼ばれる練習法がある。東京都出身のウルフが柔道の総本山・講道館の少年部で稽古していた小学生のころだ。指導員から「この数の抑え込みだとアジア一周くらい。時間をあげるから、これを本当の世界一周にして欲しい」と課題を出されると、考えたのちに反対側に移動する間に上四方固めと崩れ上四方固めを入れることを提案。指導員に称賛され、みんなを驚かせたことがある。

従来の形にこだわらず、自分で考えて行動することを教え込まれたウルフは、今後も自らの信義にそって、柔道に関わっていくだろう。それは今大会のメダルのある、なしによって変わることはない。

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