2025年6月15日のリーグHプレーオフファイナルを最後に、松本ひかる(北國ハニービー石川)が引退した。どのポジションでもチームに貢献する「究極のオールラウンダー」と言える松本だが、現役最後のシーズンは不慣れなセンターでチームを引っ張り、最後まで戦い抜いた。
ハニービーとオールラウンダーの系譜

北國ハニービー石川には代々オールラウンダーがいる。黄金期を築き上げた荷川取義浩・元監督はオールラウンダーの育成がうまく、試合の隙間を埋める選手を重宝していた。小野澤香織はDFの中心でありながら、OFでは本職のピヴォット以外でもそつなくプレーした。翁長茉莉枝は日本代表組が不在の間にチームをまとめ、センターをやりつつ3枚目を守るなど、足りない部分をカバーした。荷川取元監督は今でも「2013年の東京国体で優勝できたのは、翁長のおかげ」と言っている。
北國伝統のオールラウンダーのなかでも、歴代最高とも言える存在が松本ひかるだった。本職のレフトウイングでは、2023年12月の世界選手権で強豪デンマークを相手に、決勝点となるスカイプレーを決めている。右利きでは難しいとされるライトウイングでも、堅実にプレーする。ピヴォットに入れば機動力を生かし、ライン際をすり抜ける。センターを任されたら自分が切ってダブルポストになるなど、できる範囲で試合をコントロールする。ライトバックでは山口県出身者らしく、オフ・ザ・ボールの動きで1対1の主導権を握る。試合の流れでレフトバックになったら「練習していないけど」と言いながら、本職顔負けのミドルシュートを叩き込む。CP(コートプレーヤー)の全6ポジションで点を取り、リーグ通算300得点を達成した。こんな選手は松本しかいない。ゼネラリストでありスペシャリストでもある松本は、どのポジションを任されても、確実にチームにプラスをもたらす存在だった。
オールラウンダーの正しい使い方

松本は究極のオールラウンダーだから、ベンチにいるととても助かる。だが、オールラウンダーを一つのポジションで使いすぎると、色々とバランスが崩れてしまう。2024年2月のリーグ戦で、北國は絶対的な司令塔の相澤菜月(現チューリンガー/ドイツ)をケガで欠いていた。相澤の穴を埋めるために、当時の東俊介監督は松本をセンターでフル出場させた。試合後、東監督は「松っちゃんに甘えてしまった」と、反省しきりだった。松本の安定感は抜群だが、一つのポジションで固定すると、オールラウンダーの旨みが消えてしまう。松本も60分間ゲームコントロールを任されて、明らかに苦しそうだった。
2024年度のシーズン、松本はケガで出遅れたが、10月、佐賀での国民スポーツ大会(国スポ)で戦列に復帰した。吉留有紀が退場したら本職レフトウイングに入り、先発で出ている辻野桃加が行き詰ったら、ライトバックに入る。センターの新人・小柴夏輝が疲れてきたら、ゲームメイクを肩代わりする。オールラウンダーの理想的な使い方であり、松本が最も輝く起用法だった。松本のモットーである「自分のできることを少しずつ」が、コート上で表現された時の北國は強い。松本の効果的な働きもあり、北國は国スポを制した。 (下に記事が続きます)
チーム事情で、センターに固定される

だが今シーズンの北國ハニービー石川は、チームが揺らいでいた。シーズン途中に河合辰弥ヘッドコーチ体制に変わり、直後の日本選手権では準々決勝で敗れている。リーグ11連覇どころか、プレーオフ出場も危ぶまれる状態だった。相澤、中山佳穂(ツヴィッカウ/ドイツ)、永田美香(引退)のビッグ3が抜けて、チームの核が不在だった。2025年の年明けから石川空が大阪体育大学から加わり、救世主となったが、それでも勝ち切れない試合が多かった。チームの非常事態に、自分の都合など言っていられない。松本はセンターの一番手の役目を引き受け、若返ったチームを牽引した。
松本は間違いなくいい選手だが、ひとつのポジションで長く使うと、少々粗が見えてしまう。本職のセンターよりもボールキープ力が劣るため、ボールを失うシーンが何度かあった。またOFでの負担が大きいため、DFや戻りになると足でついていけなくなり、相手に抜かれるシーンが出てきた。松本が相手にやられて「ごめんね」と謝る場面が何度か見られた。常にチームのことを第一に考え、色んな役割で着実にプラスを積み上げてきた松本からすると、「らしくない」プレーだった。
河合ヘッドに松本の起用法について聞くと、少し考え込んだあと、2つの根拠を説明してくれた。ひとつは新人のセンター小柴が、相手に研究されて壁にぶつかっていること。高い得点力で試合を作る小柴だが、自身の攻撃が封じられると、展開が単調になる。河合ヘッドは「小柴には自力で壁を乗り越えてほしい」と、奮起を促していた。もうひとつは「プレーオフに向けて、勝ち癖をつけておきたい」というのが理由だった。レギュラーシーズン30試合で引き分けが5つと、あと一歩で勝ち切れなかった北國だが、リーグ戦の3巡目は主力をほぼ固定しながら調子を上げてきた。若手を育てることも大事だが、北國にはリーグ11連覇がかかっている。プレーオフに向けては松本の経験値に頼るしかない。河合ヘッドにとっても苦渋の決断だった。 (下に記事が続きます)
8年目、30歳で引退を決意

2025年4月になると、松本は今シーズン限りでの引退を表明した。まだまだやれるし、いてくれると頼りになる選手ではあるが、松本は30歳で現役を終えると決めた。
「引退を決めたのは、ひとつは右肩のコンディションが理由です。もうひとつは2024年のパリ五輪出場が、私のなかでの大きな目標でした。目標はかなわなかったけど、日本代表で世界選手権に2度とパリ五輪予選に出られたことは、今後の人生の糧になると思います」
ライトウイングを任された2022年度のシーズンに痛めた右肩が、その後も思わしくなかった。また「(大阪体育大学時代の恩師でもある)楠本繁生先生が代表監督でいる限り、先生から『お前はクビだ』と言われるまで、日本代表にしがみつきたい」と言っていたが、あと3年気持ちを振るい立たせるのは難しかったようだ。 (下に記事が続きます)
最後のプレーオフ

2025年6月のプレーオフで、北國ハニービー石川は一体感のある戦いぶりを見せた。特に準決勝のアランマーレ富山戦では36-24と、堅守速攻で一気に試合の流れを持っていく「北國らしさ」が見られた。しかし決勝のブルーサクヤ鹿児島戦では25-27で敗れ、リーグ連覇は10でストップ。初代リーグH女王にはなれなかった。松本は最後の試合を終えたあと、いつもどおり丁寧に取材に応じた。
「リーグ3巡目でいい形になってきたんですけど、結局プレーオフのような大きい大会になって、大事なところであと1点追いつけない、勝ち越せないというのが出たのは、これからの課題かな。MVPになった相手のGK宝田希緒さんの流れを、自分たちが絶ち切れなかった。シュートが決まらない試合は、つくづく厳しいなと感じました。(後半22分、尾辻素乃子からのリターンパスを服部沙紀にカットされた場面は)自分のパスの落とし方がまだまだだったのかな。その選択が本当によかったのか。前半は私の1対1が効いていたんだから、変に2対2にこだわらずに行けばよかったのかな」
前半に一度ベンチに下がって、再びコートに戻ってきた時に、松本は1対1で得点を挙げている。
「自分にできることをシンプルにやるのは、私のモットー。バックプレーヤーでやってきた経験がない私を使い続けてくれたチームに、何で返すかとなると『できることをやる』。それしかないと思っていました」 (下に記事が続きます)
連覇は途切れ、チームは次の段階に

松本は今やれることをやったが、北國の連覇は10で途切れた。
「ずっと先輩たちに『勝たせてもらっていた』から、おこがましいかもしれないけど『自分が勝たせてあげたいな』と思っていました。最後の1年と決めていたから、今回は特にその思いが強かったですね。相澤や中山が抜けて勝てなくなったと言われたくなかったし、勝ちたかったですね。小柴に関しては、苦しみながらやってきたことを、次に生かしてほしい。彼女にはもっとセンターで試合に出てほしいと思っていたので、課題を克服して、チームの中心になってほしいです」
松本がいると便利だから、つい選手もコーチも頼ってしまう。だが「センター松本」はあくまでも「応急処置」でしかない。北國ハニービー石川が再び強くなるためには、本職の小柴が「点が取れる司令塔」に育つのが一番だし、そうしていかないとチームは次へ進めない。決して口には出さないが、賢い松本はそう感じて身を引いたのかもしれない。 (下に記事が続きます)
ベストセブンには選ばれなくても

「最後に優勝できなかったけど、選手としてはやり切りました。悔いはないです」と言ったあと、松本はひとつだけ付け加えた。
「でも、ベストセブンには一度でいいから選ばれたかったな」
これはオールラウンダーの宿命か。複数のポジションでいい働きを見せるほど、ベストセブンの投票だと分が悪くなる。センターでの出番が多かった2024年度のシーズンは最後にして最大のチャンスだったが、夢はかなわなかった。
個人タイトルにはあまり縁のないハンドボール人生だったかもしれない。パッと見でわかるような一芸もなかった。それでも何度も試合を見ていくうちに、松本のよさは見えてくる。チームのことを第一に考え、余計なことをせず、今の自分にできることを、任された場所で積み重ねていく。その繰り返しで信頼を勝ち取り、多くの人に愛された。「じっくりと時間をかけて、よさをわかってもらう」のが、松本のプレースタイルというか、生き方そのものだ。
究極のオールラウンダーだった松本ひかるは、多くのハンドボールファンの記憶に残る名選手だった。
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