朝日新聞記者・編集者12年。パリ留学2年、インド在住7年、マラソン歴15年
父・清美、母・昌子の次女として生まれました。備前市立香登(かがと)小学校に3年まで通い、4年生で隣町の長船(おさふね)町(現・瀬戸内市)に引っ越しました。両親がマイホームを建てたからでした。
父は1980年、38歳で亡くなりました。私は行幸(みゆき)小学4年生でした。その日の朝、バタバタと備前市民病院に行くことになり「きょうは体育があるのに」と思ったのを覚えています。
子ども時代から多動性で、夏休みには朝はブラスバンド、昼は水泳、夕方からはソフトボールをしていました。ソフトボール少年団は男子しかなかったのを、担任の先生に「女子がないのはおかしい」と訴え、女子チームをつくりました。ジェンダー意識が芽生えたきっかけかもしれません。
長船に帰省した2023年、スーパーで「ソフトボール女子団員募集」のポスターを見つけました。タイムカプセルを開けたような感動でした。40年以上前の私たちが思いつき(!)で始めたことが受け継がれ、いまでも続いている。スポーツの力ですね。
小学校の卒業文集に「新聞記者になる」と書きました。
中学校では卓球部で、卓球選手としてはそこそこ身長があったせいか(現在は165㎝)、顧問の先生から勧められたカットマンでプレーしました。練習は本当に厳しくて、いまではありえない体罰もありました。備前第2地区大会のシングルスで優勝し、岡山県大会では個人ベスト16に入りました。
岡山朝日高校は電車通学で自宅から1時間以上かかり、自転車2台をそれぞれの駅に置いていました。1年の時は応援団で、チアリーダーとして野球部の応援をしました。いまだに校歌も応援歌も歌えます。
2年からは休眠していた英語サークルESSを復活させて宣教師のお宅までインタビューに行ったり、部室にあったガリ版を見つけて冊子を出したりしました。タウン情報誌に「山珍の豚まん命」というペンネームで投稿もしていました。
岡大ではアイススケート部に入りました。リンクも通年オープンではなかったので、陸上部のようでした。部の仲間が統一教会系サークルに入ってしまい、脱会させようと奔走したことが印象深いです。それもあり、リンク代も貧乏学生には負担で、1年ほどでやめてしまいました。
その後は学費と旅費稼ぎのためにアルバイトをしまくりました。20万円ほどたまればリュックを背負って旅に出ていました。初めての海外はエジプトです。キャンパスに戻れば友人が創刊した学内誌に旅行記を書きました。
朝日新聞社では最初の5年は記者、後半の7年は編集者でした。初任地の新潟では高校野球を担当し、中越高校に帯同して甲子園で取材しました。監督・部長はすばらしい方々で、私が朝日新聞を辞めてパリに行くといえば壮行会を開いてくれ、パリから戻って京都でアトリエを開けば京都まで駆けつけてくれました。
大阪で編集者になってがぜん、紙面に没頭しました。集まってくる原稿の価値を判断して扱い、見出し、レイアウトを考える部署です。政治経済などは「硬面(カタメン)」社会面やスポーツ面は「軟面(ナンメン)」と言われるのですが、私は「超ナンメン」タイプと言われていました。スポーツ面の編集は好きで楽しくて、血沸き肉躍る仕事でした。サッカーの2002年ワールドカップや高校野球などのチームに入らせてもらいました。福岡でスポーツ面の編集キャップを最後に退社しました。
朝日新聞を辞め、学生ビザでパリ留学しました。料理学校ル・コルドンブルー製菓上級課程での学びは食べるのも勉強のうちです。太り出し、ジョギングを始めたのがパリでした。自宅からエッフェル塔まで行き、戻る数キロのコースです。歩いているのか走っているのか分からないようなペースでした。
人生初のレースは「ラ・パリジェンヌ」という、女性だけの大会でした。たった7キロでしたが本当に走れるかドキドキでした。ゴールしたらバラを1輪、もらえたのがうれしかったです。
フリーランスの「おやつ記者」として活動を始めました。「おやつ新報」との屋号で京都の長屋にアトリエを開きました。ランニングも続けていて、お菓子づくりをしたあと二条城の周辺を夜、走るのが定番でした。10キロ、ハーフマラソンと走り、フルマラソンに初挑戦したのは2008年、大阪・淀川市民マラソンです。完走したのに味をしめて2009年、パリマラソンに出場、完走しました。
インド滞在スタートから1カ月ほどで「インド走友会」というランニングサークルを3人で立ち上げ、初代の会長を6年ほど務めました。毎週土曜6:30、日系ホテルに集まって走っていました。2023年には創立10年を迎えました。私が運営から離れてからも在インド邦人ランナーの場となっているばかりか、世界中に「支部」があり、インド経験者同士が集まって走っています。本当にすばらしいと思います。
「ペンで、心を動かす」をミッションに、同じ朝日新聞記者出身の原田亜紀夫とPen&Co.株式会社を共同創業しました。私なんぞ…と、謙そんしているその1秒が惜しいです。「ペンで1人を支える」「ペンで1%を照らす」「ペンで世界を一つに」。そんな思いを胸に[ペンスポ]では主に編集者(ときどき初心者目線でのライター)として、力を尽くします。