アスリート引退、渡欧。スポーツに救われた

不思議なもので自分の半生を振り返ると、そこには漂う雲のようにスポーツがあった。そしてスポーツは私の人生をも変えた。子供の頃に遊びの延長で興じたが、気がついたら真剣にアスリートとして青春を捧げていた。現役引退して「選手の自分は死んだ」と決めつけて渡英したが、現地でスポーツが私を救ってくれた。文章を書くようになったのもスポーツがキッカケだ。私とスポーツとは、切っても切れない縁なのだ……。今となっては、そう悟っている。
時々、古傷が痛むこともある。しかし、それはスポーツが私に教えてくれたことを鑑みれば、大した授業料ではない。「中途半端で後悔するよりも、思い切り体当たりして、ぶっ壊れる方が気が晴れるというものだ」。本当に多くのことをスポーツで学んだ。
スポーツを含めこれまでの人生で、いろいろな伏線回収があった。現在も、未来の伏線なのかもしれない。そう思いながら日々を生きている。
ジーコとの出逢い:サッカーの神様も人間
転機となったのはJリーグ創成期の神様ジーコとの出逢いだ。鹿島アントラーズの創設にも関わった元ブラジル代表ジーコがつくったクラブ(CFZ do Rio: Centro de Futebol Zico Sociedade Esportiva)に留学することになった。ブラジル滞在で私の世界観は変わった。
ジーコと一緒にミニゲームをしていると、誰かが蹴ったボールがなんとジーコの急所を直撃し、うずくまってしまった。しばらくして立ち上がって事なきを得たが「神様も人間なんだな……」と、それまで雲の上の存在だと思っていたが妙に親近感を覚えた。
練習の後にはサインを求める行列ができるし、活動の合間には現地ブラジルの記者がコメントを求めてくるし、本当に多忙なのに真摯に向き合っているジーコを見て敬服した。
後に日本代表監督に就任したジーコが渡欧した際に、取材依頼があって何度か同じ場所に居合わせたことがある。「あの時、一緒にブラジルでサッカーをした少年です」とジーコに伝えたかったのだが、その想いは心の中にしまっておいた。相変わらず、ジーコは行く先々で人々に囲まれて大賑わいだった。
ブラジルに行ってジーコにサッカーを教えてもらった経験は、私の人生を変え、明確な目標ができた。
ストイックでエキセントリックなアスリート時代
縁あって日本有数のクラブで競技に打ち込むことになった。運良くトライアルに合格したのだ。選手にもコーチにも代表経験者が沢山いたが、皆が気さくに話しかけてくれてチームに馴染むことができた。「ナガタク」と呼ばれていたが気がついたら「ナガタックル」になっていた。得意のプレーは捨て身のスライディングタックルだった。
猛者揃いで場違いのような気がしたが、チームの誰よりも努力したことは断言できる。一番に練習場に行き全体練習後は併設されたジムで筋トレをして過ごした。時には夜遅くに高校の真っ暗なジムに忍び込んでまでトレーニングをしていた。クラブは充実した活動内容で、欧州遠征に行った際に非常に多くのインスピレーションを得た。ブラジルとヨーロッパでの経験を経て、現役引退後に海外渡航することを心に決めた。
高校では練習前の休息の場所と割り切って、よく食べてよく寝ていた。冗談抜きで真剣に「起こさないでください」という張り紙を机にしたのだが、すぐに剥がされてしまった。「世の中、思い通りにはいかないものだ」。何も知らない生徒は、私を筋金入りの怠け者だと思っていたようだ。テスト前にノートを丸写しさせてくれた秀才のクラスメイトに感謝を伝えたいが、今どこで何をしているだろうか。
体育の柔道で野球部員も陸上部員も次々と投げまくり、巨漢の柔道部員を困らせる大激戦を演じると、柔道部の先生にスカウトされた。「なにか運動はしていないのか?」と聞かれたので「フリーマンです」と答えて辞退した。どこで聞いたのか校外でサッカーをしていることを知ると応援してくれた。Jリーグが発足して断然サッカーに魅力を感じ、柔道に真剣に打ち込む気にはなれなかった。
私は柔道の素人だったが、マンガを読んでかなりのイメージトレーニングができていた。引退後に振り返ると、同世代には体幹の強さで負ける気がしなかったので、サッカーより柔道のほうが向いていたと感じたが、後の祭りだ。
後にイングランドでラグビーをしたのだが、私はどちらかというとサッカーよりラグビーの体質だと思った。学校の給食では人の3倍、サッカーの合宿をするとチームメイトの2倍の量は食べる。欧州でお世話になった指導者に「一番飯を食うヤツ」と覚えられていた。ラグビー仲間のなかでも私は食べる方だが、量は目立つほどではなかった。
妙な力の使い道
スペインである日、お米が割引されていたので閉店間際に急いで行って、ありったけの袋に詰めて帰る道中、晩御飯もまだだったのでさすがに空腹で動けなくなった。丁度、道沿いにあった公園のベンチに座り、袋からシリアルをむさぼっていた。すると、どこからともなくイスラム教徒の女性が来て「これ、食べて」といってクロワッサン1つと50セント(80円)のコインを手渡して去っていった。一瞬なんのことだか分からなかったが、薄暗い公園で寒空の下、大量の荷物を抱えて食事をしていたので住んでいると思われたのだろう。申し訳ないので返そうにも、この荷物では歩みはのろく追いつかない。あの博愛の微笑みを心に留め、ありがたくいただいておこう。「世の中、まだ捨てたもんじゃないな」そう思った。
この女性に遭遇した夜、私は遠い昔を思い出した。なんの見返りも求めずに週末返上で手取り足取り一生懸命に教えてくれた少年サッカーの指導者を私は心から敬愛する。私もあんな大人になりたいと思っている。
渡英後、指導者として自分を試したいと思った。ロンドンのスラム街の公園で草サッカーをしていたので入れてもらったら、コーチをしてほしいと頼まれた。快諾したが、ほとんどの選手が手のつけられない不良少年だった。サッカーをする前に人としての作法がまるでなっていない。でも、だからこそやりがいがあった。才能の片鱗はそこかしこにあった。不良少年の殺気をよい方向に向けられれば、凄いフットボーラーになる。非行に走って才能を潰してしまう少年がいて残念に思うこともあったが、プロクラブのアカデミーに選手が合格すると自分のことのように嬉しかった。
体力の使い方が私は人とちょっとズレている。カバンには日英と英日の中辞典を2冊も入れていたし、何kgもある重いPCを持ち運んでいた。自分では気が付かないのだが、傍から見ると、かなりおかしかったようだ。
ある日、ロンドン市内を歩いていると眼の前から女性の悲鳴が聞こえてきた。よく見ると、大男が少女から財布をひったくって自転車に飛び乗り逃走を始めた。考えたのが先か、体が動いたのが先か、定かではない。次の瞬間には、左足の裏で男を自転車から蹴落としていた。自転車をこぐ男は頭をかがめており、確実に当てられる左肩に全体重をぶつけた。その後、慌てて立ち上がった男は駆け足で逃走。私は追いかけたのだが、例のごとく大きなカバンが足手まといとなり取り逃がしてしまった。
スコットランドヤード(ロンドン警視庁)の事情聴取を受けたのだが、説明すると刑事は「君はカントナだ! 被害者の女性は感謝している。でも財布には20ポンド(4000円)しか入っていなかった。もし犯人が拳銃を持っていたら命はなかったぞ。そんな小銭のために死ぬのは割にあわないから気を付けて。大使館にお礼を伝えておいたから」と言った。日英の友好に貢献できたとすれば本望だ。人を蹴飛ばしておいて友好というのもおかしな話だが「これもスポーツ」ということで……。
後日、たまたま滞在したホテルに、元フランス代表の伝説的MFエリック・カントナが住んでいたことが分かって、何か不思議な巡り合わせを感じた。
突然の監督デビュー
イングランドではセミプロクラブでプレーする誘いもあったが、あくまで勉強するために来たのだ。英国立大学UCAに入学すると一度きりの学生生活なのだからと思いサッカー部に入り、選手兼監督への就任要請を受けて快諾した。コーチングライセンス講習の通訳やサッカー関連の翻訳を行うこともあった。
後にスペインのクラブでもコーチを務めた。しばらく忘れていたが、実は14歳で監督デビューをしている。
小学生の頃にアニメの真似をして、竹を地下茎から切り出してゴルフクラブを作って、林に向けて打って遊んだりもした。河原の崖をロッククライミングしたら岩が落ちてきて大怪我をした。一つ間違えば失明の可能性もあった。
放課後、よく野球少年の友達とプレーをした。私は左利きなのに右利きグローブを使っていたため、かなりメチャクチャだったが、それも面白かった。
校庭で大人たちがサッカーをしていて、いつも入れてもらっていた。子供心にサッカーが楽しそうに感じてジュニアチームに入った。
進学の際にクラブチームではなく中学校サッカー部を選んだ。クラブに行くのは、交通費も会員費もバカにならない。「レベルが高いが遠いクラブに通うより、近くの学校で1分でも長く練習する」と決めた。
3年生が引退すると投票でサッカー部の部長兼キャプテンに選出されたのだが、春には顧問の体育の先生が異動になり、私が自動的に監督を務めることになった。プレーしながら監督としてチームを指揮していると、脳が拡張しているように感じた。14歳にとって思春期の多感な男子を100人近く統率するのは一苦労だったが、今となってはいい経験になった。こんな私についてきてくれた当時の部員に伝えたい謝罪や御礼の言葉が今も心の中にある。
集大成としてソーシャルアクション
自分がどうやったら人々の役に立てるのか考えて、ソーシャルアクションを行っている。フットボールのいろいろなアイデアが頭に浮かび、ついには新種のスポーツを創案した。
世界初のコンペティティブな混合フットボール『Propulsive Football』(PROBALL)
世界初となるコンペティティブな混合フットボール「プロプルシヴ・フットボール」(プロボール)。
サッカーを進化させた新しい競技で、サッカーを知っている人であれば簡単に理解できる。楽しいのはもちろんのこと、真剣勝負もできるルール設計になっている。
「男女」「大人と子供」「障がい者と健常者」「人間とマシン」といったあらゆる混合競技が可能なスポーツ多様性プロジェクトだ。
小難しい話は抜きで楽しくスポーツをするだけで、ダイバーシティ&インクルージョンに資することができると確信している。
宇宙カルチャー&エンターテインメント『The Space-Timer 0』
宇宙は遠く殺伐とした世界で、科学やビジネスといった硬い話題が多い。そこで宇宙の文化や娯楽について考え、宇宙がもっと面白く身近な存在になればと思い『The Space-Timer 0』を立ち上げた。
ジャパニーズ・ミニマリズム・アートムーブメント『MINIRISM』
アートナレッジハブ『The Minimalist』と題して、日本のミニマリズム(最小主義)について研究している。
例えば、風呂敷は便利で使って楽しく環境に優しい。茶室は、日本文化を体現する不思議な空間だ。このように想像力と創造性を膨らませることで、新たな発見や革新につながると考えている。飽くなき探究心で、混合フットボールも思いついた。
ノンフィクションで始まった執筆だが、学術書、小説、絵本も手掛けている。芸術、スポーツそして執筆は、私にとって表現の手段だ。私の頭が何を生み出すのか、いつもワクワクしている。