「ミスター・ジャイアンツ」「ミスタープロ野球」と呼ばれた長嶋茂雄さんが2025年6月3日、肺炎で亡くなった。享年は89(やきゅう)。自身の背番号「3」日が命日となるとは…。1965年から1973年までの巨人のV9(9年連続日本一)に貢献し、1974年には「わが巨人軍は永久に不滅です」という名言を残して引退した。
そんな国民的英雄が脳梗塞で倒れたのは21年前の2004年3月のことだった。私はその発表がされた日、朝日新聞スポーツ部で交代制の「夜勤」についていた。午後2時ごろに着席。翌日付の朝刊最終版が降版する午前1時過ぎまで、大量のファクスやロイター、APなどの外電、国内の通信社電に目を通して「覚知」したことをデスクにアピールするのが一つの仕事だ。
読売巨人軍から1枚のファックスがカタカタカタ…と流れてきたのはその日の夕方だった。「長嶋茂雄さんが倒れて緊急入院」。長嶋さんは当時、アテネ五輪に向けた日本代表監督でもあった。スポーツ部の駆け出し記者だった私でもさすがに「これは大変なことになった」と察知した。上ずった声でデスクにアピール、編集局がひっくり返るぐらいざわついたのを記憶している。
長嶋さんは一命をとりとめ、その後の懸命のリハビリで回復したが、右半身にマヒが残った。公の場に出るときは車いす姿が常だった。(下に記事が続きます)
ついえたアテネ五輪代表監督、東京五輪聖火ランナーで晴らす
そんな長嶋さんが自身の足で「走って」世界を驚かせた日が忘れられない。2021年7月23日。コロナ禍で1年延期された東京五輪開会式だ。
巨人の盟友だった王貞治さん、愛弟子の大リーグ元ニューヨーク・ヤンキースの松井秀喜さんとともに聖火リレー走者として国立競技場のトラックに立った。松井さんに支えられながら、ゆっくり歩を進めた長嶋さんを、私は1人の東京五輪・パラリンピック大会組織委員会職員として見ていた。
会場には万一のために、車いすが持ち込まれていたが、長嶋さんはそれを使わず、走り切った。1年近く歩行練習を繰り返し、その日のために備えていたのだという。2004年アテネ大会の野球日本代表監督としてオリンピックの舞台に立つはずだった目標は、脳梗塞による闘病で絶たれたが、長嶋さんはそれを17年越しの五輪の舞台で、しかもあらん限りの気力を振り絞って、叶えたように映った。
まさにドラマ 天覧試合でサヨナラ弾
いまから66年前の6月、1959年6月25日は過去に一度しかない、天皇(昭和天皇)、皇后両陛下がプロ野球を球場で観戦した「天覧試合」が行われた日だ。後楽園球場(東京都文京区)での巨人ー阪神戦。もつれにもつれた試合は4-4の9回裏にさしかかり、決着をつけたのが、巨人の4番長嶋さんだった。阪神の村山実投手から、左翼ポール際にサヨナラソロ本塁打を放つ。劇的な幕切れ。時刻は21時10分を過ぎ、両陛下が退場する21時15分の数分前、日本テレビの中継終了予定時刻も21時15分で、そのギリギリで放ったサヨナラ弾だった。プロ野球界の顔、希代のエンターテイナー。その人生はまさにドラマのようだった。
ご冥福をお祈りいたします。


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