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【バレーボール】Vリーグ女子新規参入の福岡ギラソール | 監督は「ミスタービーチバレー」

第26回夏季オリンピック アトランタ大会ビーチバレー男子/1回戦/日本xドイツでプレーする高尾和行さん=1996年7月23日©フォート・キシモト
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29年前の1996年アトランタ五輪で初めて正式種目となったビーチバレーに日本代表として出場したオリンピアンが、福岡市を拠点に自ら立ち上げた6人制女子バレーボールチームを率いて来季のV.LEAGUE(Vリーグ)に参戦する。国内トップリーグ(SVリーグ)の下部リーグにあたるVリーグに2025-26年シーズンから加入する福岡ギラソールの高尾和行監督(58)だ。

2025年5月16日、福岡市内での記者発表会が開かれた。「女子バレーを通じて地域の人々とのつながりを深め、愛され、応援されるチームに」。意気込む選手たちのハレの日を、「ミスタービーチバレー」が満足そうに見守った。

目次

ビーチの草分け、頼りは1本のビデオテープ

高尾さんとビーチバレーの出会いは高尾さんが20代前半のころ、法政大学バレーボール部時代にさかのぼる。1920年代に米西海岸で始まり、アメリカやブラジルなどではすでに人気が定着していたビーチバレーの世界選手権がブラジルで開催されることになり、日本協会は初めて選手の派遣を検討した。だが、国内にプレーヤーは皆無。当時、強豪だった法政大学のバレー部に白羽の矢が立ち、6人が選抜された。その中の1人が高尾さんだった。

ビーチバレーと聞いて最初はピンとこなかった。指導者もいない。当時はインターネットもYoutubeもなかった。頼りはブラジルから届いた1本の試合映像のビデオテープだけだった。静岡・伊豆半島南部の白浜で合宿し、砂浜に初めてネットを張り、ビデオを観ては見よう見まねでプレーした。2対2、砂の上、風の中、はだしでプレーすることを高尾さんは初めて知った。

ところが、競技を探りながらプレーしていくうちにすぐにハマっていった。インドアバレーにはない環境への適応の面白さ、そして相手の裏をかく頭脳戦のレパートリーに魅了された。「ビーチバレーは2対2なので、鏡のようなスポーツ。自分がサボれば横の味方に影響し、それがダイレクトに自分に返ってくる。自分のレシーブが悪ければいいパスが返ってこないので、いいスパイクが打てない。非常にわかりやすいですよね」

アジア大会金メダル、アトランタ五輪出場

ビーチバレーボールプレーヤーの草分けとして努力を重ねた高尾さんは大学4年の時、第1回ワールドツアーで日本代表として世界を転戦した。その後、実業団の住友金属入りした後も、インドアとの二刀流でメキメキとビーチの実力を上げて、1994年の広島アジア大会で金メダルをつかむ。そして初めて五輪の正式種目にビーチバレーが組み込まれた1996年アトランタ五輪では瀬戸山正二氏とのペアで17位になり、歴史に名を刻んだ。

アトランタ金は米国代表監督のカーチ・キライ

アトランタ五輪金メダル。得点に喜ぶ米国のカーチ・キライ(左)とケント・ステフス組=FIVB Photo Galleryより
アトランタ五輪金メダル。得点に喜ぶ米国のカーチ・キライ(左)とケント・ステフス組=FIVB Photo Galleryより

そのアトランタ五輪ビーチバレー男子で金メダル、MVPを獲得したのが、昨シーズンまで米国女子代表、今季から米国男子代表監督を務めるカーチ・キライ(64)だった。1984年ロサンゼルス、1988年ソウルのバレーボールでも金メダルに輝いていて、バレーボールとビーチバレーの両方で金メダルを獲得した唯一無二のレジェンドだ。高尾さんは過去に3度対戦歴があり、いずれも勝てていない。

米国女子代表を率いていたカーチ・キライ前監督=FIVB Photo Galleryより
米国女子代表を率いていたカーチ・キライ前監督=FIVB Photo Galleryより

高尾さんはいう。「大谷翔平の『憧れるのはやめましょう』じゃないですけど、当時は対戦相手としてしか見ていませんでした。ああ、カーチ・キライはこのコースが好きなんだとか、このコースに入れば拾えそうだな、とか癖を見抜こうとしていましたね」

「でも、時が過ぎて、カーチ・キライが米国女子代表を率いていた昨シーズンまでは、テレビで大写しになると、今度はキライしか観ていませんでしたね」と笑った。同じビーチバレー出身で、女子チームのバレーを率いる立場になった今は自身の境遇も重なり、やはり気になる存在なのだろう。キライが試合中、笑わず、常に険しい表情をしているのはサムライのように一喜一憂しない当時の男子バレー日本代表に影響されたからだというエピソードも高尾さんが教えてくれた。

そんなビーチバレーは今や、バッキンガム宮殿前で行われた2012年ロンドン五輪で全競技を通じて観客動員1位、コパカバーナビーチで行われた2016年リオデジャネイロ五輪ではサッカーに次ぐ2位となった現代の花形競技になった。2024年パリ五輪ではエッフェル塔のふもとにあたるシャン・ド・マルス公園に連日1万1千人以上の観客が詰めかけたのは記憶に新しい。

福岡ギラソール、どんなチームに?

2025-2026シーズンからV参入が決まった福岡ギラソール=2025年4月16日、福岡市博多区の福岡県立スポーツ科学情報センターで(多田写す、以下すべて)
2025-2026シーズンからV参入が決まった福岡ギラソール=2025年4月16日、福岡市博多区の福岡県立スポーツ科学情報センターでⒸPen&Sports
記者発表会で話す高尾監督。「今後は福岡の子どもたちにVリーグ選手に教えてもらった、と言ってもらえる。それだけで価値がある」

高尾監督自身はビーチバレーのプロ選手として多くの支援者やスポンサーに支えられてきた経験の持ち主だ。だから、地域密着、支えてくれる地域の支援のありがたみが身をもってわかる。福岡ギラソールを自らの手で立ち上げて5年目。念願のVリーグ昇格を果たし、どんなチーム作りを描いているのだろう。

高尾監督は地元プレスの前で「土台をしっかり作っていって、SVリーグができるだけ早く見えるように」と語った。その一方で記者発表前には「私たちはクラブチームで、1社がドーンとお金を出してくれるチームじゃない。まずはVリーグで何年かかけて、常に上位にいるような状況をつくっていく。そして、周りの方々から『早くSVリーグに上がればいいのにね』と思ってもらえるチームにならないと。Vリーグには慌てないでと言われている」とどっしりと構えている。

福岡ギラソールは19歳から36歳まで11人いるメンバーのうち、5人が福岡県出身。今後、年間を通じてVリーグで戦っていくため、スカウティングに動く計画だが、SVリーグ昇格を急いで強化を優先すれば、福岡ゆかりの選手をチームに留めておけない可能性も出てくる。「3、4年はVリーグでいい。160万都市福岡でとにかく愛される、応援されるチームを」。SVリーグへの昇格へ向けて拙速に動くよりも、まずは地域の人々とのつながりを大事にし、福岡に根をはることがチーム作りの前提にある。

バレーコミュニティのTarkey‘s Bar

最後に書き留めておかなければならないことがある。「ミスタービーチバレー」は福岡ギラソールの監督以外にも、もう一つの顔があることを。それはバーのオーナー・店長の顔だ。福岡市中央区大名で高尾監督自らが経営し、今月で15周年を迎えたTarkey‘s Barはバレーボール仲間でにぎわう憩いの場、ギラソールへの応援の輪を広げるコミュニティになっている。

「知り合いが知り合いを連れてきてくれて、どうすればギラソールを応援できますか?と話すお客さんも多いんです。ギラソールのファンの方も、スポンサーの方も来られます。ギラソールのグッズもここで買えるんですよ」

アトランタ五輪に出場した「ミスタービーチバレー」はチームを指導し、営業し、そして夜にはバーで人と人との関係をバレーボールでつなぐ。今年10月からVリーグに参戦を果たす、まだ全国的には無名の福岡ギラソールにとって、高尾監督の存在こそが絶大な「ブランド」に違いない。

高尾和行(たかお・かずゆき)1967年5月12日、佐賀県出身。佐賀工業高校を経て入学した法政大学でビーチバレーを始め、1989年FIVBワールドシリーズ(現ワールドツアー)3位に。1994年アジア大会(広島)金メダル。1996年アトランタ五輪日本代表。ビーチバレー日本代表監督を歴任。2021年、福岡ギラソール設立、監督就任。2027年ワールドマスターズゲームズ(淡路島)での金メダル獲得を目標に、現在も現役で競技を続ける。身長180センチ。

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