2025年6月14日、リーグHプレーオフ準決勝を最後に、佐藤快(28)=大同フェニックス東海=が引退した。いつも明るく、前向きな姿勢で愛された佐藤だが、プレーオフでコートに立つのは、大同に入って6年目で初めてのことだった。最初で最後のプレーオフで結果を残すまでに、どれだけの苦難を乗り越えてきたのか。彼のハンドボール人生を振り返りたい。
セットOFの流れをよくする

佐藤快(大同フェニックス東海)はエゴを見せないセンタープレーヤーだった。シュート力がないから、強力なバックプレーヤーが揃う大同のなかでは霞んで見える。だが、試合になると存在感を発揮する。テンポよくボールを回して、「打ちたがり」なチームメートを気持ちよく打たせる。球離れがいいから、佐藤がセンターに入る時間帯は、セットOFが渋滞しない。レギュラーで使うには火力が足りないが、要所で使えば、攻撃の流れをスムーズにしてくれる。
快の父親であり、大同特殊鋼OB、元ジュニア(U23)日本代表監督でもある、大同大学の佐藤壮一郎監督は、息子の快の特徴をこんな風に表現していた。
「快も、妹の那有(HC名古屋)も、新しい指導者が来たら、メンバーから外されるんですよ。で、試合が終わってから『あれ? アイツがいないと、試合がうまく回らないのか』と、指導者があとから気づく。そんなタイプです」
実に玄人好みで、無形の力を持ったセンタープレーヤー。能力値以上の「プラスα」をチームにもたらす存在と言える。(下に記事が続きます)
両肩脱臼で手術3回

いつも明るく振る舞う佐藤だが、彼のハンドボール人生は「ハードモード」だった。両肩の脱臼で、都合3回手術をしている。瓊浦高校(長崎)2年冬の九州大会前に左肩を脱臼し、手術をした。これが1回目。
「高2の冬に左肩を手術して、高3の6月のインターハイ予選にギリギリ間に合ったというか、復帰させてもらいました。お医者さんからは『5分しか出たらダメだよ』と言われていました。インターハイ予選は優勝できなかったけど、そのあとは復活して、長崎国体に出たりしました」
父・佐藤壮一郎監督が率いる大同大学に入ってすぐに、また左肩を脱臼した。保存療法で復帰したが、1年生の秋のインカレ1回戦で左肩が外れたため、再び手術をした。
「脱臼して、リハビリして、復帰して、また脱臼するの繰り返しでした。1度目の手術は、肩の可動域を保つ方法でしたけど、2回目の手術では、ラグビー選手がやるような、ガチガチに肩を固める手術を選択しました」
肩の脱臼の手術は、大きく分けて2つの方法がある。ひとつは、肩の可動域を保つやり方。もうひとつは、身体接触をしても肩が外れないよう、骨を切って、腱と一緒に肩の前方に持ってくるやり方。後者は脱臼が再発しにくくなるが、肩の可動域は極端に狭くなる。(下に記事が続きます)
右肩を手術しても、生きる道を模索する

2度目の手術から復帰して「これで大丈夫や」と意気込んでいたら、大学3年生になって今度は右肩を脱臼してしまった。
「右肩を脱臼した時は『(ハンドボール人生は)終わったな』という感じでした。投げる方の肩なので、お医者さんはみんな、可動域を保つ方法を勧めてくれました。でも僕は、4年生のインカレでプレーできないのが一番悔いが残ると思ったから、たとえボールを投げられなくても、ガチガチに固める方法を選択しました。当時はトップDFが僕の武器だったので、投げるよりも身体接触に負けないことを優先しました。大学4年ではコートに立つことができましたけど、シュートが打てない。投げられない。だからOFだと僕の目の前が広いんですよ。相手から捨てられているんですね。それでも『やれることをやるしかない』と思ってやりました。キャプテンだったし、周りに声をかけて、一生懸命やる姿勢だけは示せたかな」
ケガで試合に出られないときは、応援団や裏方をまとめるなど、コート外の活動にも全力を尽くした。諦めずにリハビリを続け、最後はコートに立って、2018年春には東海学生リーグ優勝に大きく貢献している。「自分の生きる道を模索する」佐藤のスタイルは、大学時代に形作られた。(下に記事が続きます)
僕は大同でプレーして、チームを勝たせたい

縁あって、親子二代で大同特殊鋼フェニックスのユニフォームに袖を通したが、佐藤の苦難はなおも続く。1年目にトップDFでチャンスをつかみかけたのに、2年目になると新人の中田凌河に取って代わられた。DFで存在価値を示せないならと、今度はセンターで球回しを磨いていたら、4年目のシーズン途中に可児大輝や窪田礼央(現大崎オーソル埼玉)が内定選手で加わり、佐藤はベンチ外になった。
「メンバーから外されるなんて、誰にでもあることですし、自分にやれることをまじめにコツコツとやるだけなんで、試合に出られなくなっても、その姿勢だけは崩さずにやってきました。でも『チームに必要とされてないのなら、ここにいる価値はないのかな』と思ったりもしました。2023年のプレーオフ準決勝で、トヨタ車体(ブレイヴキングス刈谷)にボロ負け(24-36)したあと、実家に戻ってランニングしていたら、たまたま父と会ったんですよ。『飯でも食いに行くか』と誘われて、2人で吉野家へ行きました」
「食事しながら『チームに必要とされているかわからない。どうしたいいのかもわからない』なんて話をしていたら、涙が出てきました。父からは『お前はどうしたいんだ? どこでもいいから試合に出たいのか? それとも大同を勝たせたいのか?』と聞かれました。僕は『大同で試合に出て、チームを勝たせたい』と答えました」
父である佐藤壮一郎監督も、2年前の出来事をよく覚えている。
「快が『俺は大同で試合に出て、大同を勝たせたい』と言ったから、『だったら結論は決まっているよね』で、この話は終わりました。自分が試合に出て、大同を勝たせたいのなら、悩むことはない。もう一度監督に認められて、チームに認められて、結果を出していくしかないよね」
大同で大好きなハンドボールをやりたくて、ここまでやってきた。ろくにボールが投げられない状態でも採ってくれたチームに恩義がある。佐藤はもう一度原点に立ち返り、明るくまじめにコツコツと、自分のできることに向き合うようになった。 (下に記事が続きます)
家族の支え。手術と母との思い出

腐ることなくハンドボールを続けられたのは「家族の存在が大きかった」と、佐藤は言う。
「僕の体質のせいか、麻酔が合わなくて、手術のあとは嘔吐が止まらないんですよ。3回手術して、2回は麻酔が合わなかった。出るものも出尽くして、もう胃液しか出ない。肩は痛いし、身動きも取れない。母(美保さん)が差し出してくれるバケツに何度も戻していました。病院のベッドの上で『なんで俺、こんなことしてるんだろう』と思ったら、悔しくて泣けてきて……。隣にいた母も一緒に泣いていました」
「ここまで支えてくれた両親のためにも」という思いはあったのかと聞くと、佐藤は少し考えてから口を開いた。
「そういう感覚はなかったですね。僕が『もう一回やる』と決断したから、家族はそれをバックアップしてくれた。いつも味方でいてくれた。そんな感じです」
本人の決断を尊重し、無償の愛で支えてくれた。家族の「ほどよい距離感」が、佐藤をたくましくした。
最初で最後のプレーオフ

現役最後となった2024~25年のシーズンで、佐藤はプレーオフに出場した。大同に入って6年目にして初めて、プレーオフでベンチ入りを果たした。スコア上は2試合で無得点。シュートは1本だけだが、準々決勝のレッドトルネード佐賀戦では、可児へのアシストを決めている。新人の藤坂尚輝と同時にコートに立って、藤坂のゲームメイクを肩代わりする時間帯もあった。
「現役最後の年に初めてプレーオフに出られました。まさにご褒美でしたね。プレーオフでもいつもと変わらず、一人ひとりのよさを引き立てるにはどうするかだけを考えていました。(藤坂)尚輝だったらクイックネスとシュート力が凄いので、僕がむしろ尚輝に助けられています。周りに優れた選手がいるから、僕が生きられる。今でも相手から『こいつで勝負だ』と言われますよ。この歳(28歳)になれば『また言ってるわ』と、気になりませんけど」(下に記事が続きます)
「大同らしさ」を取り戻す

温厚な佐藤だが、たまにカッとなることもある。
「相手に捨てられたときに、シュートを決めて、相手のベンチに向かって『ウォーッ!』と煽ったら、誠さん(末松誠監督)に怒られたこともありました。『そんなみっともないことをするな。プレーでやり返せばいいだろう』と」
無駄にオラつかない。強さはプレーで示す。勝負どころではひとつになって、相手を飲み込む。これぞ真の大同らしさ。かつて2005年度からの10年間で9回プレーオフを制した「短期決戦に強い大同」の凄みが、2025年のプレーオフでは久しぶりに見られた。
「今回はコート上だけでなく、ベンチもベンチ外も含めて、全員に『勝とう』という気概がありました。守っても、点を取っても、全員が立ち上がって声を出す。そういう一体感がありました。みんなががんばる姿を見て、僕も感極まるというか、嬉しかったです。プレーオフのちょっと前ぐらいから、みんなが共通認識で『楽しもう』と言うようになりました。そういう言葉が自然と出てくるのがいいなと感じていました。ハンドボールは楽しいものじゃないですか。それが言葉で出てくるときは、いいパフォーマンスを出せるんで」
2025年5月の引退セレモニーでも、佐藤は「大同が好き。ハンドボールが大好き」と語っていた。そんな思いが伝わるような試合内容だった。(下に記事が続きます)
引退後の夢。世界で勝てる日本を作る

現役を引退した佐藤は、8月1日から1年間、スペインにコーチ留学する。
「スペインは優秀な指導者を数多く輩出しているし、スペインのハンドボールのスタイルが好きなので、バルセロナの語学学校に行くことにしました。ある程度生活が落ち着いてから、バルセロナやグラノイェルスなどでハンドボールを学ぶ予定です。スペインだけに限らず、色んな国や色んなカテゴリーを見て回りたい。自分のオリジナリティを確立するための材料を、沢山持っておきたい。僕の一番の目標は、世界で勝てる日本を作ること。そのために自分ができることをやっていきたい。特に育成年代の強化に興味があるので、育成と勝利のバランスをどうしているのかを、この目で確かめたいです」
留学先で困難に直面することもあるだろう。だが佐藤なら前向きに乗り越えていけるはずだ。明るくまじめにコツコツと、自分にできることを積み重ねてきた男は、次の夢に向かって一歩を踏み出す。
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