車いすテニスでパラリンピックの4つの金メダルを獲得するなど、世界ランキング1位のまま2023年1月に現役引退した国枝慎吾さん(39)が米フロリダ州オーランドで新生活をスタートさせた。米テニス協会(USTA)の車いすテニスコーチをしながら、国際スポーツのテニスに必須な英語をリスキリング(学び直し)するためといい、2024年1月20日に渡米した。契約は1年ごとで最長2年という。引退からちょうど1年の節目となった1月22日には妻の国枝愛さんがXを更新。「夫が引退してちょうど一年が経ちました!そんな今日はついにこちらで住む部屋の鍵を受け取りまさにアメリカでの新生活の扉が開きました」と報告した。
東京2020組織委の元職員らが企画「未来への伝言」
Pen&Sports [ペンスポ] は今回、国枝慎吾さんの貴重なインタビューを紹介する。以下の記事は2023年5月14日、東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会の元職員の有志が企画したオープントークセッション「東京2020から未来への伝言」で国枝慎吾さんが語った内容を編集、構成したものである。東京五輪・パラリンピックから2年半が過ぎた今もなお、五輪にまつわる談合や汚職の問題が社会を騒がせているなか、組織委職員やオリパラ関係者が心血を注いだあの大会は一体何だったのかを改めて討論し、継承していくプロジェクトだ。東京大学キャンパス内の情報学環・福武ホールで行われた第1回討論会。アスリートの立場から、国枝慎吾さんが競技人生の集大成とした東京パラリンピックを赤裸々に振り返った。
国枝慎吾(くにえだ・しんご)1984年、千葉県生まれ。9歳の時、脊髄腫瘍のため車いすに。11歳で車いすテニスを始める。パラリンピックシングルスで金メダル3個、ダブルス金メダル1個、銅メダル2個。4大大会では生涯ゴールデンスラムを達成。パラリンピックそして全ての4大大会を制してシングルスの優勝が28。ダブルス22、計50。絶対王者として君臨し2023年1月、世界ランキング1位のまま引退。2023年3月、国民栄誉賞受賞。
東京パラリンピック「この大会にかけていた」
有明コロシアム(車いすテニス会場)に入った瞬間、アドレナリンが出るようなものすごいパワーを感じました。1年以上悩まされていた腰の痛みが不思議となくなっていて「だいぶいい」と、トレーナーとも話しました。自分は、本当にこの舞台、東京パラリンピックにかけていたんだなと思いました。
東京パラリンピックは自分のキャリアの最大のゴールで、夢の舞台でした。そして、予想していた以上の達成感がありました。無観客となりましたが、会場の ボランティアの方々が応援してくださった。どれくらいなんですかね。ざっと500人ぐらいはいたんじゃないかな。拍手もあって、ホームでやっているんだという感じがしました。「無観客」という事情があったからか、テレビカメラに映らないところから応援してくれていたのですが、「無観客」とは思えないぐらいの声援に感じました。
2020年全豪優勝 帰国便で「コロナ」のニュース
当初のオリンピック・パラリンピックイヤーの幕開けだった2020年1月、全豪オープンで優勝しました。最高のスタートを切ったぞという思いでした。この流れで夏のパラリンピックを迎えたらと自分自身に期待しかないなという心境でいたなか、帰りの飛行機に乗ったら、新型コロナウイルスのニュースに接しました。
3月にアメリカに遠征したらロックダウンになりました。ちょうど大会の2回戦が始まる前、ウォーミングアップしていたらいきなり「中止」だと。航空会社に電話してもなかなかつながらず、帰りたくても帰れない状態でした。その時、東京五輪、パラリンピックも?と、帰りの飛行機の中で不安がよぎりました。案の定、日本も大変なことになり、テニスクラブも閉鎖されて、2020年3月に東京2020の1年延期が決まりました。
とはいえ、テニス界は比較的コロナ禍からの再開が早くて、全米オープンが2020年9月、開催されることになり、アメリカに乗り込みました。もちろん不安もありましたが、1年後の東京開催に向けて何かヒントになれば、と。 自分自身も東京五輪・パラリンピックの開催が決まった2013年秋以来、そこにかけてきたので。コロナにビクビクしていると、 パフォーマンス的にも差がついてくると思いました。全米オープンでも周りの選手を見ていてすごく思いました。海外勢は萎縮したり、びくびくしたりしていませんでした。
2020年の全米オープンでは、選手や運営を隔離し、外部と接触させないバブル方式やPCR検査、大会の食事の様子なども写真に撮って、東京五輪・パラリンピック大会組織委員会に情報を共有しました。全米オープンの事例を紹介することで、開催に一歩でも近づけてほしいとの思いもありました。プレーしたい思いと、何としても東京開催を…との思いの両方がエネルギーになっていました。
全豪に続いて全米でも優勝できて。その時思ったんです。「これ、本当なら今ごろ東京パラリンピックで金メダルだったんだなあ」と。ちょうど元々やるその年の夏の時期に、全米で、同じハードコートで、条件同じで。金メダルで間違いないでしょう、って。
暗転したのは2021年でした。腰が痛くなった影響で全然、思うような成績が出なくなりました。2月の全豪も7月のウィンブルドンも勝てなくて。ウィンブルドンでは腰を曲げるのも球を拾うのも辛くて、コルセットを巻いていたので「そりぁあ初戦で負けるわな」というコンディションでした。東京パラまであと1カ月余りで、「オレ持ってないな」と妻に言いました。妻も「まあしょうがないよ」って、あきらめムードだったんですよね。
でもあとは「オレはオレだし」と腹をくくりました。東京パラリンピックが始まるまでは、腰をかばいながら、フォーム改造やバックハンドの改善など、何かがきっかけになりはしないかということを祈りながらやっていました。
日本大丈夫か、と思った時期も
2021年2月の全豪オープンでは、入国して2週間はホテルで隔離されていました。1日で5時間だけ、練習で外出できました。簡易的なジムやテニスコートで2時間ぐらい打って、行きと帰りの時間も含めて5時間という計算でした。毎晩のオンラインミーティングでは、選手と運営側で結構やり合いましたね。「そんなルール書いてなかった」とか抗議をしたり、みんなヒートアップしていました。
コーチとトレーナーが一緒でしたが、 自分と一緒に外出できるのは1人だけでした。そうするとコーチを連れていくじゃないですか。トレーナーは2週間ずっとホテルに缶詰で、話し相手は僕しかいなくて。2週間後に外の空気を吸った瞬間は本当に感動していて「これがシャバの…」と言っていましたよ(笑)。
この全豪の後、6月ぐらいには海外は「通常モード」になってきました。空港のショップもオープンしていたり、街のバーが人だかりになっていたりしてエネルギーを感じました。テニスの大会のレストランにパーテーションはなかったですし、マスクしている選手も実際、そんなに多くはなかったです。
ところが、日本に帰ってくるとまだそんな雰囲気ではなく「日本、大丈夫か」と感じました。2週間隔離があって、外国選手はいない。東京オリパラに向けたアスリート特例の優先入国措置「アスリートトラック」も作られたころでしたが、これが結構しんどくて。「アスリートトラック」をつかうのであれば、ホテルのフロア全部貸し切ってくださいとか、エレベーターで誰とも接触しない導線があるホテルじゃなきゃダメだとか。なかなか使えるルールじゃないなと正直思っていて、難しかったですね。
※アスリートトラック:行動範囲や移動手段を制限することで、14日間の隔離期間中に競技への出場が可能となる仕組み。
車いすテニスは「スポーツ」ではなく「福祉」?
車いすテニスを始めたのは11歳のころ、千葉県柏市にある吉田記念テニス研修センター(TTC)です。日本テニス協会副会長の吉田(旧姓・沢松)和子さん夫妻が運営するスクールで、車いすテニスのレッスンが一般のテニスと同じように、ぼくが始める30年以上前からレッスンがありました。 一般と車いすのプレーヤーが一緒にいる、今の言葉でいう共生社会がありました。そんなところで育ったので、ずっと「スポーツ」をしていると思っていたのです。
ところが2004年アテネ・パラリンピックのダブルスで金メダルを取っても、新聞のスポーツ欄には載りません。「福祉」カテゴリーに入ってしまう。あれ、自分がやっていたのはスポーツじゃなかったのかと。スポーツと扱われないことに対して、葛藤を感じていました。
2006年の秋には世界ランキング1位になり、グランドスラムが2006年、2007年ぐらいから車いすテニスも同時開催になりました。それまでは車いすテニス選手はとにかくパラリンピックを目指して4年間を費やしていたのが、4大大会も同じぐらい大事だというマインドに変わってきました。自分自身もこのころから、4大大会を目指す延長線上にパラリンピックがある感じになりました。
北京(2008年)ではシングルスで金メダルを取り、2009年に車いすテニス選手として初めてプロ宣言をしました。もちろん経済的な理由もありますが、スポーツとしての魅力を発信するという使命感がありました。そうじゃないと未来が見えなかった。世界一になったぼくが先頭に立って、このスポーツを世の中に広めることが必要と考えて決断しました。北京からロンドン(2012年)ぐらいの間に、ようやく新聞のスポーツ面に毎回載るようになった印象はありますね。
2013年開催決定、東京までやると宣言
2013年9月、オリンピック・パラリンピックの東京開催が決まったというニュースが飛び込んできました。ちょうど全米オープン決勝戦の前夜でした。次の日、大事な試合が待っているのに、一睡もできないくらい興奮したのを今でも覚えています。翌日のプレーがボロボロだったのも(笑)。どんなパラリンピックになるんだろうと、もうワクワク感しかなくて。興奮しました。
当時29歳でしたが7年後、36歳になる東京までやると宣言したのは、2012年のロンドン・パラリンピックの雰囲気がすごくよかったからです。大会後もイギリスの選手はちゃんと強化していて。日本でも開催されたら社会を変える力があると感じていました。「有明の大観衆の前で金メダルを取ることが僕の目標です」と大会まで7年間、ずっと言い続けてきました。(下に記事が続きます)
「盛り上げよう」は少し違う
パラリンピック開催前にNHK「プロフェッショナル 仕事の流儀」でも言いましたが、「パラリンピックを盛り上げよう」みたいな風潮は、すごく気持ち悪い。 違うなと思いました。選手たちのプレーを観て盛り上がろうぜ、じゃないと。オリンピックは「盛り上げよう」と言われない のにパラリンピックだけ「じゃあ盛り上げよう」っていう風潮は、まだオリンピックの域に達していない証拠です。選手も努力しないと、パラスポーツが真の意味でスポーツとして認められないのでは、と思っていました。
健常者テニスと車いすテニスの親和性は高いと思います。民間のテニスクラブで、もっと車いすテニスをやってほしい。僕自身も9割ぐらいは健常者の元選手と打ち合っていました。
バスケやラグビーと違って身体接触はないし、コートのサイズやネットの高さ、使う道具も一緒です。打ち方の動画で誰を研究するかといえば、フェデラーとかジョコビッチです。
先日、取材があって、車いすテニス選手が民間のコートを使おうと思ったら断られた話があって、どう思うか尋ねられました。
「使えなかったことだけを記事にしないでください」と取材者に言いました。使えるコートは僕がプレーしてきた30年間で、すごく増えてきています。そっちも書かないとアンフェアですよと伝えました。
実際、僕の通った柏の吉田記念テニス研修センターは30年前、僕が始めた時の方が、車いすテニスの選手は多かったんです。なぜ減ったかと言うと、当時は関東全域から柏に集まったんですね。今はプレーできる場所があるから、柏まで来なくても近くでできるようになったからです。
もちろんハード面で問題がある場所って当然あります。車いすが使えるようになるのは何年も先かもしれない。受け入れなくちゃいけない部分もあります。
「競技として観てくれたのが伝わった」
東京パラリンピックをきっかけに、競技性の高さが伝わった手ごたえはありますね。ぼくが金メダルを取ったあとの周囲の反応が、今までのどの大会とも違いました。
今までは記事で「国枝 世界一車いす」と出ると「優勝すごいね」と言われましたけど、パラリンピック以降は例えば、「あのサーブすごいよね」とか、プレーについて細かく反応してくれるようになったんですよね。ちゃんと競技を見てくれた感想が多くなった。ようやくうわべだけじゃなく、ちゃんと見てくれたというのが伝わって、すごくうれしかったです。
コロナ禍の前の2019年、楽天ジャパンオープンで優勝しました。国内で車いすの大会が満席で、数千人いて、これは東京が楽しみだなと思っていました。残念ながら東京パラは無観客ではあったけれども、メディアを通じて多くの方々に伝わったことは、僕の達成感や満足感、キャリアを終える決断にも、十分つながった大会だったと感じます。
もちろん有観客であればもっと…とは思いますが、2013年に思っていた反響以上のものが、無観客であっても手応えとしてありました。感謝の思いもしっかり伝えたい。
車いすテニスを観て、まずは「面白い」と思ってもらわないと競技の発展はない。そこは自分にノルマを課していました。人の予想を上回るプレーをしないと、また足を運んでくれない。足を運んでくれないってことは、大会にスポンサーがつかない。スポンサーがつかなければ賞金も少なくなる。そうなるとこのスポーツで生きていけなくなる。
面白いと思ってもらえたことはノルマをクリアしたわけで、すごくうれしいですね。他の競技もですが、観戦してもらって「すごい」と思ってもらうプロセスを踏むことは大切だなと思います。(終わり)
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